君とピアノと、初夏の記憶
君はいつも、手紙を四つに畳んでから渡した。交差点の信号が青に変わるまで、僕はそれをポケットにしまわず、掌の中で温めていた。初夏の風が君の髪を揺らした。何を書いたの、と訊くと、君は笑って「まだ読まないで」と言った。あの角を曲がったら、もう君はいなかった。
雨が降っている。君は傘を持たずにやって来て、僕の傘に滑り込んだ。交差点の向こうには、いつもの喫茶店。濡れた前髪を指で払う君が、何か言いかけてやめた。信号が青になる。僕らは渡らず、雨の向こうに滲む街を、もう少しだけ眺めていた。
夏のゼミで、君と隣になった。
大学の古い校舎は、窓を開け放していても、午後になるとむっとするような熱気がこもった。黒板には先生の書いた難しい言葉が並び、窓の外では、蝉がまだ季節を間違えたように鳴いていた。
僕は、君の横顔にどぎまぎしていた。
髪を耳にかける仕草だとか、ノートに書き込むときの細い指だとか、そんなことばかり気になって、先生の話など少しも頭に入らない。
それで、何を道化ていたんだっけ。
そうそう、先生が質問したとき、僕はわざと大げさに手を挙げたんだ。
「つまり、人生というものは、最後にはすべて音楽になるんじゃないでしょうか」
そんなことを言ったら、ゼミの連中が笑った。
先生は眼鏡をずり上げて、「君はなかなか面白いことを言うね」と言った。
君も笑った。
その笑顔が、僕には何より嬉しかった。
ゼミが終わると、君は鞄を抱えて、廊下の向こうへ歩いていった。僕は慌てて追いかけた。
「ねえ、君。ピアノって弾ける?」
「少しだけ」
「じゃあ、今度聴かせてよ」
君は振り返って、ちょっと困ったように微笑んだ。
「どうして?」
「いや、なんとなく。夏だからさ」
そんな返事しかできなかった。
その週の土曜日、僕は君の住む町へ出かけた。
駅から坂道を上って、古い商店街を抜けたところに、小さな喫茶店があった。奥の部屋にはピアノが置いてあって、君はそこでアルバイトをしているのだという。
窓辺には初夏の花が飾られていた。
君は白いブラウスを着て、ピアノの前に座った。
「何を弾こうか」
「何でもいいよ」
君は少し考えて、それから、ゆっくりと弾き始めた。
知らない曲だった。
でも、どこか懐かしい気がした。
初めて聴くのに、ずっと前から知っていたような。遠い町の夕暮れや、帰り道の風や、まだ何も始まっていなかった頃の自分を思い出すような。
僕は黙って聴いていた。
曲が終わると、君は振り返った。
「どうだった?」
「うん。すごくよかった」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど、うまく言えないんだ」
君は笑った。
「いつもそうね。何か言おうとして、結局、変なことばかり言うんだから」
「そうかな」
「そうよ」
そのとき、僕は思った。
ああ、僕は君の前で、いつだって道化ているんだな。
本当は、もっとちゃんと話したいことがある。
君といると、何でもない一日が、夢のように思えること。君の弾くピアノを聴いていると、今まで知らなかった自分の心に出会うこと。
そして、君の横顔を見ていると、どうしようもなく幸せになること。
でも、そんなことを言ったら、君はどんな顔をするだろう。
だから僕は、また冗談を言った。
「今度は僕がピアノを弾くよ」
「弾けるの?」
「いや、これから習うんだ」
君は声を上げて笑った。
窓の外では、初夏の風が吹いていた。
あの夏のことを、今でもよく思い出す。
君とピアノと、初夏の記憶。
夢というものは、いつだって、ほんの少しばかり道化た僕らのところへ、そっと帰ってくるのかもしれない。