神楽坂のパントマイム神楽坂の石畳を、君は音もなく歩いていた。両手を伸ばし、そこに見えない扉があると云う。僕が笑うと、君は少し困った顔をして、今度は見えないピアノを弾き始めた。坂道を吹き抜ける初夏の風。遠くから聞こえる誰かの笑い声。君の指先が鍵盤を離れたとき、僕は拍手をした。君はお辞儀をして、そっと僕の手を取った。二人のあいだに、まだ誰も知らない物語が始まっていた。
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君とピアノと、初夏の記憶
夕暮れの広場に、古いサーカスの楽団がやってきた。君は赤い風船を手に、ブランコ乗りの少女を見上げている。僕はベンチに腰掛け、ピアノの音に耳を澄ませた。遠くで汽笛が鳴った。銀河鉄道が、今夜も星のあいだを走っているのだろう。君が振り向いて笑った。その瞬間、広場の灯りがひとつずつ星になった。
屋上に出ると、初夏の風がシャツの裾を揺らした。君は両手を広げ、「ねえ、飛べるかな」と笑った。僕も真似をしてみたけれど、足はコンクリートに張りついたまま。遠くの空を、銀河鉄道のような雲が流れていく。いつかあの列車に乗って、知らない星まで行こう。君はそう言って、僕の手を取った。飛べない僕らにも、旅立つための切符はあるらしい。
あの頃、僕たちは、何にでもなれると思っていた。
大学の講義を抜け出して、神田川沿いを歩いたり、喫茶店の片隅でいつまでもコーヒーを飲んでいたり。誰かが持ち込んだ一冊の詩集を囲んで、世界の果ての話をした。明日になれば何かが変わる。来年になれば、もっと遠くへ行ける。そんなふうに、根拠もなく信じていたんだ。
君は、よく紙飛行機を折った。
ノートの端をちぎって、几帳面に折り目をつけ、最後に両方の翼を少しだけ持ち上げる。そうすると、どんなに頼りない紙切れでも、空気をつかまえて飛んでいくのだった。
「ねえ、これ、どこまで飛ぶと思う?」
君は僕に尋ねた。
「風まかせさ」
僕がそう答えると、君は少し不満そうに頬をふくらませた。
「それじゃ、つまらない。ちゃんと行き先を決めなくちゃ」
「じゃあ、パリ」
「遠すぎるわ」
「ロンドン」
「もっと遠いじゃない」
君は笑った。そして、紙飛行機を窓の外へ放った。
初夏の風が吹いていた。
キャンパスの木々は若葉を光らせ、遠くのグラウンドから運動部の掛け声が聞こえていた。紙飛行機は一度、午後の光の中でふわりと浮かび、それから校舎の陰へと消えていった。
僕たちは、いつまでもその行方を見つめていた。
*
君と初めて会ったのは、音楽室だった。
正確に言えば、音楽室の隣にある、小さな練習室。誰でも自由に使えるその部屋には、少し古びたアップライトピアノが置かれていた。
僕が扉を開けたとき、君はショパンを弾いていた。
曲名は知らなかった。知っていたのは、その旋律が、まだ名前のついていない感情を僕の胸の奥から呼び起こしたことだけだ。
君は演奏を終えると、振り向いて言った。
「ごめんなさい。うるさかった?」
「いや。ずっと聴いていたいと思った」
そんなことを、初対面の女の子に平気で言えたのだから、若さというものは恐ろしい。
君は少し驚いたあと、笑った。
「じゃあ、もう一曲だけ」
その一曲が終わると、君はまた一曲弾いた。
結局、僕たちは夕方までそこにいた。
君はピアノのことを話し、僕は好きな小説の話をした。君はフランス映画が好きで、僕は古いジャズのレコードが好きだった。僕たちは、知らないものを知っているふりをしながら、それでも互いの話に夢中になった。
帰り際、君は机の上にあった講義ノートを一枚ちぎり、紙飛行機を折った。
「これ、あげる」
「なんだい、これ」
「ペーパーウイング」
君は得意そうに言った。
「紙の翼。いつか遠くへ飛んでいくためのものよ」
僕はそれを受け取った。
君の指先が触れた紙には、折り目がいくつもついていた。翼の片方には、小さな文字で、何か書かれていた。
よく見ると、それはフランス語だった。
Un jour, quelque part.
いつか、どこかで。
僕はその言葉を、心の中で何度も繰り返した。
*
それから僕たちは、よく一緒に過ごすようになった。
講義が終わると、神保町の古書店を巡り、気に入った本を見つけては喫茶店に入った。新宿の小さなジャズ喫茶で、薄暗い店内に流れるピアノの音に耳を傾けることもあった。
君は、音楽を聴いているとき、ときどき目を閉じた。
その横顔を眺めていると、僕は不思議な気持ちになった。君はここにいるのに、どこか別の場所を旅している。僕の知らない街、僕の知らない季節、僕の知らない夢の中へ。
そんな君の隣に、いつまでもいられたらいいと思った。
けれど、僕には、それを口にする勇気がなかった。
ある日の午後、僕たちは大学の裏手にある公園のベンチに座っていた。君はノートを膝に広げ、何かを書いていた。
「ねえ、あなたは、将来どうするの?」
不意に尋ねられて、僕は空を見上げた。
「小説を書きたいんだ」
「小説?」
「うん。人が生きていくこととか、誰かを好きになることとか。そういう、うまく言葉にできないものを書いてみたい」
君は鉛筆を止めた。
「素敵ね」
「でも、食べていけないだろうな」
「そんなこと、今から心配するの?」
君は笑った。
「あなたは、いつも夢の話をするとき、最後に現実を持ち出すのね」
僕は何も言えなかった。
君はノートの端をちぎると、また紙飛行機を折り始めた。
「私はね、いつかパリに行きたいの」
「パリ?」
「うん。セーヌ川のそばを歩いて、古い本屋さんに入って、知らない人たちの話を聞くの。それから、小さな部屋を借りて、毎日ピアノを弾く」
「ピアニストになるのかい?」
「ううん。ただ、ピアノのある暮らしがしたいだけ」
君は折り上がった紙飛行機を、僕の手のひらに載せた。
「夢って、必ずしも何かになることじゃないと思うの。どんなふうに生きたいか、ということでしょう?」
僕は、その言葉を忘れないようにしようと思った。
けれど、人は大切な言葉ほど、簡単には覚えていられないものらしい。
そのときの僕は、ただ、君の横顔がきれいだと思っていた。
*
夏が近づくにつれて、僕たちの周りでは、いろいろなことが起こり始めた。
友人たちは就職活動に追われ、将来の話をするときの声が少しずつ真剣になっていった。誰かが内定をもらい、誰かが故郷へ帰ることを決めた。いつまでも続くと思っていた日々に、少しずつ終わりの気配が漂い始めていた。
君にも、ピアノの先生から留学の話が来ていた。
パリの音楽院で学んでいる先生の知人が、若い演奏家を探しているのだという。
「まだ決めていないの」
君はそう言った。
僕は、どうして、と尋ねたかった。
どうして行かないの、と。
君なら行くべきだ。君の夢なのだから。僕はそう言わなければならなかったのだと思う。
けれど、心のどこかでは、行かないでほしいと願っていた。
君がいなくなることを考えると、僕の見ている世界から、色がひとつずつ消えていくような気がした。
その日、僕たちは練習室でピアノを聴いた。
君はいつもより長く弾いた。ショパンのノクターン。それから、僕の知らない曲。最後に、短い旋律を繰り返した。
「それ、何という曲?」
「まだ名前はないの」
「君が作ったの?」
君は頷いた。
「いつか、どこかで、また会えるような曲」
僕は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
窓の外では、風に吹かれた若葉が揺れていた。
君は鍵盤から手を離し、僕を見た。
「ねえ、もし私がパリに行ったら、手紙を書いてくれる?」
「もちろん」
「小説も書いてね」
「うん」
「いつか、あなたの小説を読ませて」
僕は頷いた。
本当は、君に伝えたいことがあった。
君が好きだということ。
君と一緒にいたいということ。
けれど、そんな言葉を口にしたら、今までの時間が壊れてしまうような気がした。だから僕は、いつものように冗談を言った。
「じゃあ、ベストセラーになったら、パリまでサインしに行くよ」
君は笑った。
「待ってるわ」
その笑顔が、僕の記憶に残る最後の笑顔になるとは、そのときは思いもしなかった。
*
君が旅立つ日、僕は空港まで見送りに行った。
大きな窓の向こうに、飛行機が何機も並んでいた。人々はそれぞれの行き先へ向かい、誰かと別れ、誰かと再会していた。
君は小さなスーツケースを持っていた。
「案外、荷物が少ないんだね」
「大切なものは、そんなにたくさん持っていけないもの」
君はそう言って、僕に一枚の紙を差し出した。
折り目のついた、白い紙。
ペーパーウイングだった。
「今度は、あなたが飛ばして」
「どこへ?」
「あなたの行きたいところへ」
僕はその紙飛行機を受け取った。
何か言わなくてはと思った。今なら、まだ間に合う。君の名前を呼んで、好きだと言って、行かないでくれと頼むことだってできる。
けれど、僕は何も言えなかった。
君は少しだけ寂しそうに笑い、それから搭乗口へと歩いていった。
人の波に紛れていく君の後ろ姿を、僕はいつまでも見つめていた。
やがて、君の姿が見えなくなった。
僕は手の中の紙飛行機を広げた。
そこには、あのフランス語が書かれていた。
Un jour, quelque part.
いつか、どこかで。
その下に、小さな文字が加えられていた。
Je n'oublierai jamais cet été.
この夏を、決して忘れない。
僕は紙をもう一度折り直した。
そして、空港の大きな窓の前で、そっと飛ばしてみた。
紙飛行機は、ほんの少しだけ宙に浮き、すぐに僕の足元へ落ちた。
僕はそれを拾い上げ、ポケットにしまった。
いつか、どこかで。
その言葉だけを胸に、僕は帰りの電車に乗った。
*
それから、長い時間が過ぎた。
僕は小説を書かなかったわけではない。何度も書き始め、何度も途中で投げ出した。仕事をし、生活をし、友人たちと酒を飲み、時折、思い出したようにピアノの音を聴いた。
君からは、何通か手紙が届いた。
パリの街角のこと。小さなアパルトマンのこと。音楽院で出会った友人たちのこと。セーヌ川のほとりで見つけた古本屋のこと。
君の手紙には、いつも小さなスケッチが添えられていた。
カフェの窓辺。石畳の路地。雨に濡れた街灯。あるいは、楽譜の片隅に描かれた、頼りない紙飛行機。
僕は返事を書いた。
大学のこと。街の変化。古い喫茶店がなくなったこと。友人の結婚。僕が見た夢のこと。
けれど、僕たちの手紙は、いつしか途絶えた。
どちらからともなく、というのが正しいのだろう。
それぞれの暮らしが始まり、それぞれの時間が流れていった。
君が今、どこにいるのか、僕は知らない。
ピアノを弾いているのだろうか。パリにいるのだろうか。それとも、別の街で、新しい暮らしを始めているのだろうか。
時々、考えることがある。
あの夏、もし僕が君に好きだと言っていたら、何かが変わっていただろうか。
君はパリへ行かなかったのだろうか。
それとも、僕も一緒に行っていたのだろうか。
けれど、そんな問いに答えはない。
過去は、何度思い返しても、もう一度やり直すことのできない物語なのだから。
*
ある初夏の日、僕は古い本棚を整理していた。
引き出しの奥から、一枚の紙が出てきた。
ずいぶん黄ばんでいたが、折り目はまだ残っていた。
ペーパーウイング。
君がくれた、あの紙飛行機だった。
僕は椅子に腰掛け、それをゆっくりと広げた。
フランス語の文字は、薄くなっていた。
それでも、読むことはできた。
いつか、どこかで。
この夏を、決して忘れない。
窓の外では、若葉が風に揺れていた。
遠くから、ピアノの音が聞こえてきた。どこかの家で、誰かが練習しているのだろう。つたない音が、ひとつ、またひとつと、初夏の空気に溶けていった。
僕は思わず目を閉じた。
あの練習室。古いアップライトピアノ。君の横顔。夕暮れのキャンパス。神田川の水面に映る光。
そして、君が笑いながら紙飛行機を飛ばした、あの午後。
すべてが、昨日のことのように思えた。
僕は机に向かい、白い紙を一枚取り出した。
今度こそ、小説を書こうと思った。
君と過ごした初夏のこと。
夢を語り合った日々のこと。
伝えられなかった言葉のこと。
そして、紙飛行機に託した、あの頃の僕たちの願いのこと。
一行目を書いた。
二行目を書いた。
書き進めるうちに、僕は気づいた。
僕が書こうとしているのは、失われた恋の話ではないのだ。
あの頃、君が教えてくれたこと。
夢は、何かになることだけではない。どんなふうに生きたいか、ということ。
それを、僕はようやく理解し始めていた。
窓を開けた。
風が吹き込んできた。
僕は書きかけの原稿をまとめ、紙飛行機を一つ折った。昔、君が教えてくれたように、翼の角度を少しだけ整えた。
そして、窓辺からそっと放った。
紙飛行機は、初夏の風を受けて、ゆっくりと舞い上がった。
一度、二度、小さく揺れながら、空へ向かって飛んでいく。
僕は、その行方を見つめた。
もう、行き先を決めなくてもいいのだと思った。
風まかせでもいい。
どこか遠くへ届くかもしれないし、すぐに地面へ落ちるかもしれない。
それでも、飛ばしてみること。
それが、僕にとっての、新しい始まりなのだ。
空の向こうに、君がいるような気がした。
ピアノの旋律が、もう一度、風に乗って聞こえてきた。
僕は小さく笑った。
「いつか、どこかで」
そう呟いて、机に戻った。
初夏の光が、白い紙の上に降り注いでいた。
僕は再び、物語を書き始めた。
今度は、最後まで書こうと思った。
君に届くかどうかは、わからない。
けれど、僕たちが確かに生きた、あの季節のために。
そして、いつか、どこかで、もう一度空を見上げる誰かのために。
ペーパーウイングは、風の中を飛んでいく。
夢と、君と、ピアノの音を乗せて。
初夏の記憶を、翼のように広げながら。
財団に携わっているスタッフ、理事、スポンサーは大切な存在です。そしてなにより大切なのは若い生徒たちです。13年前、今は亡き父とわたしは教育を通して若い世代が彼らの夢を実現できるようにと願いました。この仕事は今後も継続し発展させていく所存です。南カリフォルニアのラーニング。センターから、ワシントンDCでのアール
財団に携わっているスタッフ、理事、スポンサーは大切な存在です。そしてなにより大切なのは若い生徒たちです。13年前、今は亡き父とわたしは教育を通して若い世代が彼らの夢を実現できるようにと願いました。この仕事は今後も継続し発展させていく所存です。南カリフォルニアのラーニング。センターから、ワシントンDCでのアール