あの日のざわめきが、聞こえてきたよ。古いレコード屋の前を通ると、どこからかジャズの音が流れてきた。学生たちの笑い声、喫茶店のドアが開く音、君が「ちょっと待って」と呼び止める声。あの日、僕らは何を話していたんだろう。レコード袋を抱えた君が、夕暮れの街角で振り返る。そうだ、あの頃は何もかもが始まりそうだった。風に吹かれて、僕はもう一度、あの日のざわめきの中へ歩いていく。
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君とピアノと、初夏の記憶
観覧車のてっぺんで、君は小さな地図を広げた。「あの緑の向こうまで行こうよ」。初夏の風に髪をなびかせながら、君は笑う。僕はバスケットに詰めたサンドイッチと、冷たいレモネードのことを思い出していた。降りたら、芝生の木陰を探そう。古いピアノ曲を口ずさみながら、何でもない話をしよう。街は遠くで輝いている。今日は、僕らのためだけの休日だ。
観覧車がゆっくりと街を見下ろす高さまで昇っていく。君は窓辺に頬を寄せ、遠くの公園を指さした。「あそこで聴いた曲、覚えてる?」夏の演劇祭の帰り道、誰かが口笛で吹いていた古いメロディ。僕は少し考えてから、そっと歌い始める。君も笑いながら続きを歌った。街の屋根も、川の光も、あの日と同じように見える。観覧車が一周するあいだ、僕らはいつものメロディを、何度も繰り返していた。
雨が降っていた。
大学の古い講堂の屋根を、雨粒が細かく叩いていた。窓の外には、神田川へ続く坂道が見えていた。道端の紫陽花は、雨に濡れて、いつもより少し濃い色をしていた。
僕は講堂の隅に座り、君がピアノを弾くのを眺めていた。
君は、さっきから同じところを繰り返していた。
「そこ、もう一度?」
僕が聞くと、君は鍵盤から顔を上げた。
「うん。雨があがったら、きっと弾けるようになると思うの。」
「雨と関係あるの?」
「あるわよ。」
君は笑った。
「雨が降っているときって、なんだか、まだ何かが途中でしょう。だから、音楽も途中なの。」
僕は窓の外を見た。
雨は、まだ降り続いていた。
その頃、僕らは夏の公演に向けて、小さな芝居を作っていた。
といっても、たいした劇団ではなかった。大学のサークル仲間が集まって、古い講堂を借り、椅子を並べ、舞台の背景を描く。誰かが衣装を持ってきて、誰かが台詞を忘れる。稽古のあとには、決まって喫茶店へ行った。
君はピアノを弾く役だった。
僕は、雨の降る町で、誰かを待っている男の役を演じることになっていた。
その男は、駅の近くの小さな喫茶店に毎日通っていた。いつか誰かが訪ねてくると信じていたからだ。けれど、その人が誰なのか、男自身にもよくわからない。
「ずいぶん、ぼんやりした話だね。」
僕が台本を読んで言うと、君はコーヒーを飲みながら、窓の外を眺めていた。
「ぼんやりしている方が、いいこともあるでしょう。」
「そうかな。」
「はっきりしていたら、もう待つ必要がないもの。」
君は、そんなことを言う。
僕は君の言葉を、いつも半分くらいしか理解できなかった。
でも、その半分が、妙に心に残った。
雨の日が続いた。
大学の構内は、いつも湿った匂いがしていた。石畳には水たまりができ、古い掲示板のポスターは端から剥がれていた。
君は、雨の日にはよく遅れてやってきた。
「ごめんね。傘がね、途中でひっくり返っちゃって。」
そう言って、濡れた髪を手で押さえながら、講堂の扉を開ける。
僕は君のために、いつも窓際の席を空けておいた。
ある日、君は小さな紙袋を持ってきた。
中には、古い写真が何枚か入っていた。
「これ、見て。」
写真には、海辺の町が写っていた。白い建物、坂道、遠くに見える小さな港。どれも、ずいぶん昔のものらしかった。
「どこ?」
「知らない町。」
「知らない町の写真?」
「そう。お父さんが昔、どこかで撮ったんだって。」
君は一枚の写真を手に取った。
そこには、雨あがりの道路が写っていた。道の端に小さな水たまりがあり、その向こうに、白い家が並んでいた。
「ねえ、行ってみたいと思わない?」
君が言った。
「どこへ?」
「この町。」
僕は写真を覗き込んだ。
「住所もわからないのに?」
「わからなくても、いいじゃない。」
君は笑った。
「雨あがれば、どこかへ行けるような気がするの。」
その言葉を聞いて、僕は少しだけ、遠くへ行きたいと思った。
夏休みが近づいていた。
君は、ピアノの勉強のために、しばらく遠くの町へ行くことになっていた。前にも聞いていたことだったけれど、雨の日が続いているうちに、その話は、なんだか現実のことではないように思えていた。
君がいなくなる。
それは、講堂の窓から見える景色が変わることと、どこか似ていた。
ある日の午後、雨がひどく降った。
稽古は中止になり、僕らはファンタジアへ集まった。窓際の席に座り、いつものようにコーヒーを飲んだ。君はクリームソーダを頼んだ。
店の主人は、古いレコードをかけていた。
僕らは、しばらく何も話さなかった。
雨が窓を叩いていた。
「ねえ。」
君が言った。
「雨あがれば、何をしたい?」
僕は考えた。
「海を見に行きたいな。」
「どこの?」
「どこでもいいよ。」
君は、グラスの中の氷を見ていた。
「私も。」
そのとき、僕は君に何か言おうと思った。
遠くへ行かないでほしいとか、もっと一緒にいたいとか。そういうことを言えばよかったのかもしれない。
けれど、僕は何も言わなかった。
君も、何も聞かなかった。
やがて、雨が少し弱くなった。
店の主人が窓を開けると、湿った風が入ってきた。道路の向こうで、誰かが傘をたたんでいた。
「雨あがったみたい。」
君が言った。
僕らは店を出た。
坂道を下りると、街のあちこちに水たまりが残っていた。雲の切れ間から、薄い光が差していた。電線に止まった鳥が、濡れた羽をふるわせていた。
君は立ち止まり、空を見上げた。
「ほら。」
その先に、虹が出ていた。
大きな虹ではなかった。建物の向こうに、ほんの少しだけ、淡い色が浮かんでいた。
僕らはしばらく、それを見ていた。
「ねえ、あの町へ行こうよ。」
君が言った。
「写真の町?」
「うん。」
「どうやって?」
「いつか、きっと。」
君は笑った。
「雨あがれば、行けるわよ。」
僕は、君の横顔を見ていた。
その顔が、あの写真に写っていた白い家の窓辺に、いつか現れるような気がした。
夏の公演の日が来た。
講堂の窓は、全部開け放たれていた。雨は降っていなかった。けれど、舞台の上には、雨の町が作られていた。
白いベンチ。古い時計。駅のホームを表す小さな看板。
君は舞台の隅で、ピアノを弾いた。
僕は、喫茶店で誰かを待つ男を演じた。
最後の場面で、男は窓の外を見る。
台本には、こう書かれていた。
「雨があがった。遠くの空に、光が見える。」
僕はその台詞を言い、しばらく黙っていた。
それから、君が弾き始めた。
あの日、講堂で何度も繰り返していた、あの曲だった。
雨が降っているときには、まだ途中だった旋律。
今度は、最後まで弾けた。
音楽が終わると、舞台の向こうから、夕方の風が吹いてきた。
僕は、窓の外を見た。
そこには、初夏の空が広がっていた。
公演が終わり、僕らは大学の裏門を出た。
坂道を下り、ファンタジアの前を通った。店の窓には、いつものレコードのジャケットが飾られていた。主人が入口の掃除をしていた。
君は立ち止まった。
「ここで、待ち合わせしよう。」
「いつ?」
「雨があがったら。」
僕は笑った。
「雨があがるたびに?」
「そう。」
君は、そう言って、僕に小さく手を振った。
それから、遠くの駅へ向かって歩いていった。
僕は、その後ろ姿を見ていた。
君が角を曲がると、街はいつもの街に戻った。
僕はしばらく、ファンタジアの前に立っていた。
その夜、アパートの机に向かい、あの古い写真のことを思い出した。
君が見せてくれた、知らない町の写真。
雨あがりの道路。白い家。小さな水たまり。
僕は引き出しから、あの紙を取り出した。
何も書かれていない紙だった。
僕は、そこに書いた。
「雨あがれば、君とどこかへ行こう。」
それから、少し考えて、もう一行を書いた。
「知らない町でも、帰る場所はきっとある。」
窓の外では、夜の風が吹いていた。
遠くから、ピアノの音が聞こえた。
僕は紙を四つに畳み、引き出しにしまった。
いつか、雨があがったら。
そのとき、僕はもう一度、君と歩いた坂道を下りていこう。
そして、どこか知らない町の、白い家の窓辺で。
君が弾く、あの曲の続きを聞くのだ。
財団に携わっているスタッフ、理事、スポンサーは大切な存在です。そしてなにより大切なのは若い生徒たちです。13年前、今は亡き父とわたしは教育を通して若い世代が彼らの夢を実現できるようにと願いました。この仕事は今後も継続し発展させていく所存です。南カリフォルニアのラーニング。センターから、ワシントンDCでのアール
財団に携わっているスタッフ、理事、スポンサーは大切な存在です。そしてなにより大切なのは若い生徒たちです。13年前、今は亡き父とわたしは教育を通して若い世代が彼らの夢を実現できるようにと願いました。この仕事は今後も継続し発展させていく所存です。南カリフォルニアのラーニング。センターから、ワシントンDCでのアール