アバンギャルドな空空が、青い絵の具をこぼしたように傾いていた。君はピアノの蓋を閉じ、窓辺に立って笑った。「ねえ、あの雲、昨日の夢の続きみたい」。僕らは屋上へ駆け上がった。風が譜面をさらい、五線紙の鳥たちが街の向こうへ飛んでいく。遠くで誰かがトランペットを吹いていた。ありふれた初夏の午後が、突然、名もない前衛画家の作品になった。君の髪が光の中で踊る。僕はその瞬間を、さよならの代わりに胸へしまった。
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君とピアノと、初夏の記憶
初夏の光が、海辺のカフェの白いテーブルクロスに踊っていた。サブリナは大きな帽子を少し傾け、レモネードのグラスを手に取る。遠くの桟橋には、イルカが一頭、まるで迎えに来た紳士のように待っていた。
「ごきげんよう。今日はどちらまで?」
彼女がそう尋ねると、イルカは尾びれで水を跳ね上げた。
サブリナは笑って靴を脱ぎ、波打ち際へ駆け出した。白いスカートが風をはらむ。街の喧騒も、昨日の小さな悲しみも、海の向こうへ置いていこう。
イルカの背に乗って、彼女は青い水平線へ。心の中では、古いピアノが軽やかなワルツを奏でていた。世界はまだ、素敵な偶然に満ちている。
初夏の夕暮れ、彼女は古いオルゴールを見つけた。蓋を開けると、小さなバレリーナがくるりと回り、懐かしい旋律が部屋に流れた。
「まあ、こんな素敵なものがあったのね」
窓辺にはワインが二つ。向かいの椅子には、少し遅れてやって来るはずの彼。彼女は帽子をそっと置き、鏡の中の自分に微笑んだ。
やがてノックの音。彼女はワインを注ぎ、オルゴールをもう一度鳴らした。恋はいつだって、思いがけない小さな音色から始まる。初夏の夜は、まだ長かった。
初夏の午後、大学の裏門を出ると、いつもの坂道に薄い風が吹いていた。
君は白いブラウスの袖をまくり、手にした楽譜をぱらぱらとめくっていた。ピアノのレッスンが終わったばかりだった。僕は君の隣を歩きながら、さっきまで教室に流れていた旋律を、頭の中で何度も繰り返していた。
「ねえ、あの曲の最後、どうしてあんなふうに終わるんだろう」
君が言った。
「どうって?」
「終わったようで、終わっていないの。誰かがまだ、向こうの部屋で弾いているみたい」
僕は笑った。君はそういうことをよく言った。音楽の話をしているのに、いつのまにか遠い町のことや、まだ会ったことのない人のことになってしまう。
坂の途中に、小さな喫茶店があった。
看板には「ファンタジア」と書かれていた。店の窓には古いレコードのジャケットが飾られ、入口の脇には、いつから置かれているのかわからない木製のベンチがあった。
僕らはその店によく立ち寄った。
コーヒーを飲み、君はクリームソーダを頼んだ。窓際の席に座ると、午後の光がテーブルの上に四角く落ちていた。君はいつもその光の中に指先を置いて、何かを確かめるようにしていた。
「ここに共和国があるのよ」
ある日、君は唐突に言った。
「共和国?」
「そう。秘かな共和国。誰にも知られていない、小さな国。」
僕はコーヒーを飲みかけて、思わず吹き出した。
「国って、どこに?」
「この店の中。いや、この店の中だけじゃないわ。あの坂道も、大学の古い講堂も、君のアパートの窓も。私たちが知っている場所が、全部つながっているの。」
「ずいぶん広い国だね。」
「でも、地図はないの。」
君はクリームソーダのグラスを持ち上げた。氷がカランと音を立てた。
「地図を作ったら、きっと誰かに見つかってしまうでしょう?」
それから僕らは、共和国の話をするようになった。
共和国には、国境がなかった。入国審査もなければ、旅券も必要なかった。ただ、誰かが誰かの話を聞いているとき、その人の中に、ほんの少しだけ国の入口が開くのだった。
政治家も軍隊もいなかった。代わりに、古いピアノが一台あった。
そのピアノは、共和国の中央広場に置かれているのだと君は言った。誰かが悲しいときには、誰かが弾く。誰かが遠くへ行ってしまったときには、残された人が弾く。曲は決まっていない。楽譜もない。
「それなら、僕が弾いてみようかな」
僕が言うと、君は少し考えてから、首を横に振った。
「まだだめよ。あなたは、さよならの仕方を知らないから。」
僕はその言葉の意味を、よくわからなかった。
君は笑っていた。
夏が近づいていた。
大学では、芝居のサークルが夏の公演に向けて動き始めていた。僕らも仲間たちと小さな舞台を作ることになった。古い講堂の窓を開け放ち、机を並べ、誰かが持ってきたラジカセからジャズを流した。
君は舞台の上でピアノを弾いた。
僕はその隣で、何かの役を演じることになっていた。台詞はたいしたものではなかった。誰かを待つ男の話だった。駅のホームで、いつまでも来ない列車を待っている。やがて男は、待っていた人がもう来ないのだと気づく。それでもホームを離れられない。
稽古の途中、君は突然ピアノを止めた。
「ねえ、どうしてこの人は帰らないの?」
「待っているからだろう。」
「誰を?」
「それは、わからないよ。」
君は鍵盤の上に両手を置いたまま、しばらく黙っていた。
「わからないことって、素敵ね。」
その日の夕方、僕らはファンタジアへ行った。
店の主人は、いつものようにレコードを回していた。窓の外には、薄い雲が広がっていた。君はクリームソーダを頼まなかった。かわりに、温かい紅茶を注文した。
「もうすぐ、私、ここを離れるの。」
君はそう言った。
僕は、何も答えなかった。
君は夏休みの間、遠くの町へ行くことになっていた。ピアノの勉強を続けるためだった。ずっと前から決まっていたことなのに、僕はそのことを、どこか遠い話のように考えていた。
「いつ帰ってくるの?」
「わからない。」
君は笑った。
「でも、共和国はなくならないでしょう?」
僕は窓の外を見た。
坂道の向こうに、夕日が沈みかけていた。大学の講堂から、誰かがピアノを弾く音が聞こえた。まだ練習をしているのだろう。風に乗って、短い旋律がこちらまで届いていた。
「なくならないよ。」
僕は言った。
「そうね。」
君は紅茶を飲んだ。
「じゃあ、いいわ。」
その日から、僕らは少しずつ、さよならの準備を始めた。
君は楽譜を整理し、僕は舞台の台詞を覚えた。喫茶店の窓際の席に座ると、いつもと同じ光がテーブルの上に落ちていた。けれど、僕らは以前ほど、共和国の話をしなくなった。
ある夕方、君は僕に小さな封筒を渡した。
「これ、持っていて。」
中には、何も書かれていない紙が一枚入っていた。
「何もないじゃないか。」
「ううん。あるわ。」
君はそう言って、僕の手をそっと閉じさせた。
「いつか、何か書きたくなったら、そこに書けばいいの。」
僕は、その紙を大切にしまった。
夏の公演の日、講堂は思ったよりもたくさんの人でいっぱいになった。
舞台の上には、駅のホームが作られていた。白いベンチと、古い時計。窓の向こうには、青い布が張られていて、それが夜の空を表していた。
君は舞台の隅に座り、ピアノを弾いた。
僕は待つ男を演じた。
列車は来なかった。誰も現れなかった。僕は最後の台詞を言い、ホームのベンチに腰を下ろした。
そのとき、君が弾いたのは、あの初夏の日に教室で聞いた曲だった。
終わったようで、終わっていない旋律。
誰かがまだ、向こうの部屋で弾いているような音。
僕は顔を上げた。
舞台の上に、夏の夕暮れが広がっていた。
拍手が起こった。
君は静かに立ち上がり、客席に向かってお辞儀をした。それから、僕の方を見た。ほんの一瞬だったけれど、君は笑っていた。
公演が終わると、僕らは大学の裏門を出た。
坂道を下り、ファンタジアの前を通った。店の窓には、いつものレコードのジャケットが飾られていた。主人が入口の掃除をしていた。
「寄っていく?」
僕が聞くと、君は首を横に振った。
「今日は、いいわ。」
それから、少し歩いたところで、君は立ち止まった。
「ねえ。」
「うん。」
「さよならって、どういうことだと思う?」
僕は、すぐには答えられなかった。
君は、坂道の向こうを見ていた。
「私はね、さよならって、ひとつの国を出ることだと思うの。」
僕は、あの紙のことを思い出した。
何も書かれていない封筒。何もないようで、何かがある紙。
「でも、国を出ても、国がなくなるわけじゃない。」
僕が言うと、君はゆっくりとうなずいた。
「そうね。」
君は歩き始めた。
僕はその後ろ姿を見ていた。
君の白いブラウスが、夕方の光の中で、少しずつ遠くなっていった。
その夜、僕はアパートの机に向かい、封筒から紙を取り出した。
何を書けばいいのか、わからなかった。
僕は窓を開けた。
遠くから、ピアノの音が聞こえた。
誰かが、まだ練習をしているのだろう。
僕は紙の上に、ひとつだけ書いた。
「秘かな共和国は、今日も開かれている。」
それから、しばらく考えて、もう一行を書いた。
「君がいなくても、君の弾いた曲を、僕は覚えている。」
窓の外では、初夏の風が吹いていた。
僕は紙を四つに畳み、机の引き出しにしまった。
いつかまた、何かを書きたくなったら。
そのとき、僕はもう一度、あの国の入口を探すだろう。
さよなら、ファンタジア。
さよなら、初夏の午後。
そして、さよならを言ったあとも、ずっと続いていく、僕らの小さな共和国。
続し発展さ財団に携わっているスタッフ、理事、スポンサーは大切な存在です。そしてなにより大切なのは若い生徒たちです。13年前、今は亡き父とわたしは教育を通して若い世代が彼らの夢を実現できるようにと願いました。この仕事は今後も継続し発展させていく所存です。南カリフォルニアのラーニング。センターから、ワシントンDCでのアール
財団に携わっているスタッフ、理事、スポンサーは大切な存在です。そしてなにより大切なのは若い生徒たちです。13年前、今は亡き父とわたしは教育を通して若い世代が彼らの夢を実現できるようにと願いました。この仕事は今後も継続し発展させていく所存です。南カリフォルニアのラーニング。センターから、ワシントンDCでのアール