不釣り合いな恋人たち彼女はいつも僕より半歩先を歩いていた。古い映画の話も、ジャズの旋律も、彼女の口から聞くと、まるで初めて出会う世界のようだった。僕はと云えば、喫茶店の窓辺でピアノを弾く真似をして、彼女を笑わせるくらいしか能がない。ある初夏の午後、彼女がふいに立ち止まった。「ねえ、私たちって不釣り合いかな」。僕は答えず、彼女の手を握った。風に揺れる街路樹の下、二人の影は、どこまでも同じ長さに伸びていた。
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君とピアノと、初夏の記憶
初夏の夕暮れ、路地裏で見つけた小さなスナック。扉を開けると、ピアノの音がして、カウンターにはマーマレードの瓶が並んでいた。「これ、太陽の味がするのよ」と君が笑う。トーストにひと匙、琥珀色の甘さとほろ苦さが広がった。窓の外では、もう夜なのに、どこか遠い海辺の陽射しが揺れている。マスターは黙ってグラスを磨き、僕らはいつまでも、初夏の午後を食べていた。
「いつかエベレストを席巻するんだ」と、彼はカウンターの上にピーナッツを並べて山を作った。隣の君は、ピアノの鍵盤を弾くように、その山の頂にマーマレードをひと匙置いた。「じゃあ、私は太陽を連れて行くわ」。スナックのマスターが笑いながら、古い登山帽を二人に差し出した。窓の外は初夏の雨。僕らはグラスを掲げ、まだ見ぬ雪山に乾杯した。帰り道、君の靴音が、どこまでも高い空へ続いていた。
あの喫茶店には、レモンスカッシュがよく似合った。 駅から大学へ向かう道を少しばかり外れ、古い映画館の裏手を回ったところに、その店はあった。木枠の扉には小さな真鍮のベルがついていて、開けるたびに、からん、と控えめな音がした。店内にはいつもジャズが流れていた。ピアノの音が少し大きく、ベースが控えめで、ドラムスはまるで遠い街の雨音のように聞こえた。 僕らは、そこでよく待ち合わせをした。 君はいつも少し遅れてやって来た。遅れることを悪びれるでもなく、店の扉を開けると、僕を見つけて、まるで昨日も会っていたかのように笑った。 「待った?」 「いや、いま来たところ」 そんな会話を何度繰り返したことだろう。 僕はコーヒーを頼み、君は決まってレモンスカッシュだった。 背の高いグラスに、淡い黄色の液体。氷が触れ合う澄んだ音。グラスの縁に添えられた薄切りのレモン。その上に、赤いチェリーがひとつ。細いストローをくるりと回すと、炭酸の泡が小さな銀河のように立ちのぼった。 君は、その泡を眺めるのが好きだった。 「ねえ、泡って、どこへ行っちゃうんだろうね」 「空気になるんじゃないの」 「そういう答え、つまらないな」 君はそう言って笑った。 僕は、君が何を求めているのか、いつもわからなかった。いや、わかっていたのかもしれない。君は正解を知りたかったわけではないのだ。僕がどんなふうに答えるか、その答えからどんな話が始まるのか、そんなことを楽しんでいたのだと思う。 「泡はね、グラスの中に閉じ込められていた小さな夢なのよ。外へ出たら、もう夢じゃなくなるの」 「じゃあ、僕らの夢も、いつか外へ出るのかな」 「あなたは、すぐ難しい話にするんだから」 君はストローをくわえ、レモンスカッシュをひと口飲んだ。 窓の外では、初夏の光が街路樹の葉を透かしていた。 あのころ、僕らには何でもできるような気がしていた。世界は広く、人生は長く、明日はいつだって今日より少しだけ素晴らしいものになるはずだった。 大学の講義をさぼって海を見に行くこともあった。映画を二本続けて観て、夜遅くまで批評めいたことを語り合った。神保町の古本屋で、買うあてもない本を手に取り、知らない作家の名前を覚えた。お茶の水のレコード店では、ジャズの新譜を前にして、どちらが先にお金を使い果たすか競争しているようなものだった。 君はピアノが好きだった。 弾くのも好きだったが、それ以上に、誰かがピアノを弾いている姿を見るのが好きだった。指先が鍵盤に触れる瞬間、音が生まれる前の、ほんのわずかなためらい。その一瞬に、言葉にはならない何かが宿っているのだと、君は言った。 「音楽って、不思議ね。悲しい曲を聴いているのに、幸せになることがあるでしょう?」 僕には、それがわかるような、わからないような気がした。 「きっと、悲しみの中にも、きれいなものがあるんだよ」 そう答えると、君は珍しく真面目な顔をして、僕を見た。 「あなた、たまにはいいことを言うのね」 それから、ふたりで笑った。 笑ってばかりいたわけではない。 いつか何者かにならなければならないという焦りがあった。自分に何ができるのか、何をしたいのか、そもそも自分が何者なのかさえ、よくわからなかった。友人たちは演劇に夢中になり、音楽にのめり込み、あるいは政治や文学を語って夜を明かした。僕らもまた、自分たちの時代を生きているのだという、漠然とした自負を持っていた。 だけど、その自負が何を意味するのかは、誰にもわからなかった。 君は、時折、遠くを見るような目をした。 「いつか、ここを出ていくのかな、私たち」 「どこへ?」 「わからない。でも、ここじゃないところ」 僕は答えられなかった。 君がどこか遠くへ行ってしまうことを、そのときから恐れていたのかもしれない。 ある日の午後、君はいつもの席で、レモンスカッシュを前にして黙っていた。 外は雨だった。ガラス窓に細い雨筋がいくつも流れ、街の輪郭がぼんやりと滲んでいた。店内ではビル・エヴァンスのピアノが、ひとつひとつの音を確かめるように響いていた。 「私ね、引っ越すことになったの」 君は、まるで次の講義の時間を告げるような口調で言った。 「父の仕事の都合で。来月には、ここを離れるの」 僕は、テーブルの上のコーヒーカップを見つめていた。 何か言わなければならなかった。行かないでほしい、と言うべきだったのかもしれない。僕たちには、まだ話していないことがたくさんあった。行ってみたい街も、観たい映画も、聴きたい音楽も、いつか一緒に暮らしてみたい部屋のことも。 けれど、そんな未来の話を、僕は一度も君にしたことがなかった。 いつでも話せると思っていたからだ。 「そうなんだ」 僕は、それだけ言った。 君は小さくうなずいた。 「うん」 そして、ストローを回した。 氷が、からりと鳴った。 あんなに好きだったレモンスカッシュが、その日はひどく酸っぱそうに見えた。 別れの日は、拍子抜けするほど普通の日だった。 駅の改札口で、君は小さな旅行鞄を持って立っていた。見送りに来た友人たちが、また会おうね、と口々に言っていた。君も笑っていた。僕も笑った。 電車がホームに滑り込んでくる。 「元気でね」 君が言った。 「君も」 それだけだった。 電車の扉が閉まる直前、君は窓越しに手を振った。僕も手を振り返した。列車が動き出し、君の姿が少しずつ遠ざかっていく。 そのとき、僕は初めて、言葉というものの不自由さを知った。 伝えたいことは、こんなにもたくさんあるのに。 それから何年も経った。 僕らは、それぞれの場所で暮らし、それぞれの人生を歩いた。君がどこで何をしているのか、いつしか詳しくは知らなくなった。共通の友人から、君が元気にしているらしいと聞いたことがある。どこかの街で仕事をしているとか、音楽を続けているとか、そんな話だった。 僕は僕で、仕事を覚え、生活を整え、気がつけば、あのころ夢中になっていたことのいくつかを、遠い記憶の棚にしまい込んでいた。 それでも、夏が来ると、思い出すことがあった。 レモンスカッシュ。 氷の音。 君の横顔。 そして、言いかけたまま、とうとう言えなかった言葉。 ある夏の日、僕は久しぶりに、あの街を訪ねた。 大学の周囲はすっかり変わっていた。古い映画館はなくなり、馴染みのレコード店も、喫茶店も、もう見当たらなかった。新しいビルが建ち並び、かつて僕らが歩いた道には、知らない店がいくつも並んでいた。 街は変わる。 人も変わる。 それでも、変わらずに残っているものがあるのだと、僕はどこかで信じていた。 角を曲がると、小さな喫茶店があった。 木枠の扉。真鍮のベル。窓辺に置かれた鉢植え。 まるで、あの店がそのまま時代を越えて、そこに現れたようだった。 僕は扉を開けた。 からん、とベルが鳴った。 店内には、ピアノのジャズが流れていた。 カウンターの向こうにいた店主に、僕はコーヒーを頼んだ。それから、ふと思いついたように言った。 「レモンスカッシュも、できますか」 「もちろん」 店主は微笑んだ。 しばらくして、背の高いグラスが運ばれてきた。 淡い黄色の液体。氷。レモン。赤いチェリー。 僕はグラスを手に取り、ひと口飲んだ。 舌の上に、酸味が広がった。 それから、遅れて甘さがやって来た。 その瞬間、何かが胸の奥でほどけた。 あのころの僕らは、夢を語るには若すぎたのではない。夢がかなうかどうかを知らないまま、それでも夢を語ることのできる、幸福な時代にいたのだ。 叶わなかったこともある。 失ったものもある。 もう二度と会えない人もいるかもしれない。 けれど、あの夏の日々が、なかったことになるわけではない。 君が笑ったこと。 僕が戸惑ったこと。 ふたりで聴いたピアノの音。 そして、グラスの中で生まれては消えていった、無数の小さな泡。 それらは今も、僕の中のどこかで生きている。 店を出ると、街は夕暮れに包まれていた。 西の空には、薄いオレンジ色の雲が浮かんでいた。街路樹の葉が風に揺れ、どこかの店から、懐かしい歌が聞こえてきた。 僕は歩きながら、ふと、君に手紙を書こうと思った。 今さら何を、と自分でも思う。 どこにいるのかもわからない。手紙が届く保証もない。それでも、書いてみようと思った。 あの夏、言えなかったことを。 君と過ごした時間が、僕にとってどんなに大切だったのかを。 そして、あの喫茶店で、今日、レモンスカッシュを飲んだことを。 もしかしたら、君もどこかの街で、同じような午後を過ごしているかもしれない。ふと立ち寄ったカフェで、昔好きだった曲を聴いているかもしれない。グラスの中の泡を眺めながら、遠い夏のことを思い出しているかもしれない。 そうだったら、いいなと思った。 僕らは、同じ時間を生きていた。 それだけで、十分に奇跡だったのかもしれない。 レモンスカッシュの泡は、もう消えてしまった。 けれど、あの夏の光は、まだ消えてはいない。 そして僕は、ようやくわかったのだ。 君が好きだったのは、レモンスカッシュそのものではなかったのだろう。 グラスの中で泡が生まれ、弾け、空へ帰っていく。その短い命の輝きが、君には美しく見えていたのだ。 夢も、青春も、恋も、ひょっとしたら人生だって、そういうものなのかもしれない。 永遠には続かないからこそ、輝いて見えるもの。 過ぎ去ってしまうからこそ、何度でも心に甦るもの。 僕は空を見上げた。 初夏の風が、頬を撫でていった。 そして、心の中で君に言った。 ――ありがとう。 あの夏、僕の隣にいてくれて。 君と飲んだレモンスカッシュは、今でも、僕の人生でいちばん甘くて、少しだけ酸っぱい飲み物なのだ。 遠い記憶の中で、君が笑った。 僕はもう一度、あのグラスを思い浮かべた。 透明なガラスの向こうで、最後の泡がひとつ、静かに弾けた。 それは、まるで新しい夢が始まる合図のようだった。
続し発展さ財団に携わっているスタッフ、理事、スポンサーは大切な存在です。そしてなにより大切なのは若い生徒たちです。13年前、今は亡き父とわたしは教育を通して若い世代が彼らの夢を実現できるようにと願いました。この仕事は今後も継続し発展させていく所存です。南カリフォルニアのラーニング。センターから、ワシントンDCでのアール
財団に携わっているスタッフ、理事、スポンサーは大切な存在です。そしてなにより大切なのは若い生徒たちです。13年前、今は亡き父とわたしは教育を通して若い世代が彼らの夢を実現できるようにと願いました。この仕事は今後も継続し発展させていく所存です。南カリフォルニアのラーニング。センターから、ワシントンDCでのアール